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最新日語畢業論文范文一:
中日「美人を名花に譬える」現象における一考察
――『源氏物語』と『紅樓夢』を中心に
要旨
中國の文學作品であろうと、日本の文學作品であろうと、「美人を名花に譬え」という描寫法はよくみられる。『紅樓夢』は「中國四代名著」の一つとされて、中國小説史上で最高の作品と言われる。『源氏物語』は世界で最古の長編寫実小説として、よく日本の『紅樓夢』といわれ、世界文學史上も大切な地位を持っている。
そして、この二名著は同じに様々な美しい女性を描き出した。そこから「美人を名花に譬え」という特徴をまとめられる。本稿は「美人を名花に譬え」という現象で、例の比較を通して、共通點と相違點を探り出したい。共通點から、中國も日本も花に同様な審美観を持っている原因を表明したい。そして、共通點の裏に隠した相違點の原因を分析したい。
キーワード:源氏物語、紅樓夢、美人、名花
摘要
中日兩國都有“名花喻美人”的習慣,特別是文學作品中多有出現。《紅樓夢》是我國四大名著之一,是中國小說史上的巔峰之作。《源氏物語》是世界上最早的長篇寫實小說,被稱為日本的《紅樓夢》,在世界文學史上占有相當重要的地位。
這兩部世界文學巨著,都描繪出了姿態萬千的絕色女子,而且兩部作品中有一個共同的特征——名花美人互喻。本文將通過對名著中“名花喻美人”的實例進行比較,分析存在這一共同現象的原因。同時基于這一共性來分析其差異性,進而揭示這一現象體現出的文化差異,并對其原因進行考察。
關鍵詞:源氏物語,紅樓夢,名花,美人
目次
要 旨
摘 要
はじめに
1先行研究
1.1『紅樓夢』の花についての研究
1.2『源氏物語』の花についての研究
1.3 研究の目的と意義
2 二名著から登場する美人を花に譬える例とその原因
2.1美人を花に譬える例
2.2その原因
3 二名著における美人を花に譬える例の相違點とその原因
3.1相違點
3.2その原因
おわりに
參考文獻
謝 辭
はじめに
中國の文學作品であろうと、日本の文學作品であろうと、「美人を名花に譬え」という描寫法はよくみられる。確かに、花と女性は違う分野での美の化身で、「美」は花と女性の共通點である。しかし、美人を名花に譬える原因はただそこにとどまるのか?ほかに何かの原因が隠したのか?そして、同様な文學現象であっても、中國と日本のはどんな違うところがあるのか?どんな文化伝統と文學伝統によって、そんな違いを招いたのか?したがって、中國と日本の小説を比較して、以上の問題を研究しようと思う。
『源氏物語』は物語としての虛構の秀逸、心理描寫の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さから日本文學史上最高の傑作とされる。「世界最古の長篇小説」という評価もある。『紅樓夢』は「中國四大名著」の一つとされて、中國小説史上で最高の傑作と言われる。毛沢東も愛読し、『紅樓夢』を中國封建社會の百科辭典と稱されている。中國蕓術研究院副院長張慶善の話でいえば、世界文學史上、『紅樓夢』ほど世界でそんなに広い影響を與えた小説はなかったという。
『源氏物語』であれ、『紅樓夢』であれ、世界文學史で大切な地位を持っており、それぞれ日本と中國の代表作である。二つの作品もそれぞれの國でもっとも典型的な小説で、既に形成された文化伝統や文學伝統も克明に記された。ですから、「美人を花に譬え」という現象をこの二つの名著において研究すれば、もっとも権威のある結論をまとめられると思っている。したがって、『源氏物語』と『紅樓夢』という二名著を選んだ。本稿は『源氏物語』と『紅樓夢』における、「美人を名花に譬え」という現象で、例の比較を通して、共通點と相違點を探り出したい。共通點から、中國も日本も花にどんな審美観を持っている原因を表明したい。そして、共通點の裏に隠した相違點の原因を分析したい。
1 先行研究
1.1『紅樓夢』の花についての研究
現在、國內外でも『紅樓夢』と『源氏物語』に関しての著書と論文が多い。そして、「美人を花に譬え」という現象においての論文と著作も少なくない。國內では、北京語言大學漢語學院の周思源は「論紅樓夢の蕓術魅力」という論文で、『紅樓夢』での象徴性が人物の運命や環境などに託して表現しただけではなく、建物や器物や草花や詩の籤などの細かいところまでによって表現してきた。また、『紅樓夢の創作方法論』という著書で、象徴性を表すためによく物象符號系統を用いた。花もその中で大切な物象であるという。『紅樓夢』を研究する専門家の周汝昌は『紅樓夢の蕓術魅力』と『紅樓小講』でそう述べた。曹雪芹が花を託して『紅樓夢』の女性イメージを作り、女性の結末もそれによって暗示された。さらに、『紅樓夢』は新しくて獨特な『群花譜』と見なされる。
國外では、日本學者の伊藤漱平の《『紅樓夢』に於ける象徴としての芙蓉と蓮と-林黛玉、晴ブン並びに香菱の場合》と森中美樹の《『紅樓夢』の中の海棠-夢の世界に現実を見つめて咲いた花-》二つの論文で、『紅樓夢』はよく花を用いて女性イメージを象徴したことを提出して、具體的に林黛玉や晴ブンという人物イメージを分析した。
1.2『源氏物語』の花についての研究
『源氏物語』に関して、國內では上げればきれないほど多い。1936年、周作人は『談日本文化書』という文章の中で「源氏物語はまさに日本の紅樓夢だ』と書いていて、始めて『源氏物語』を『日本の紅樓夢』と呼んだ。二十世紀八十年代、豊子愷の『源氏物語』の中國語訳本が世に問いた後、中國の『源氏物語』についての研究が始まった。四川外國語學院の教授姚繼中は著作の『「源氏物語」と中國文化』でそういう論點を提出した。『源氏物語』が日本伝統文化と文學に生じたものだが、それと同時に中國伝統文化の精華も入れて込んだという。そして東方文化を研究している専門家葉渭渠は『日本文學史』と『日本文明』で、『源氏物語』が體現してきた仏教観や自然観や審美観などと中國文化と文學との関係を述べた。そして、『源氏物語』と『紅樓夢』を対比して、相違點と共通點を指摘した。また、國內で『源氏物語』の登場人物、たとえば源氏光や紫の上、玉鬘、末摘花、朝顔などについての論文と著作も多い。
日本では、芳賀矢一は彼の著書『國民性十論』と『日本人』でそう述べている。『源氏物語』であっても、その中から出た和歌であっても、花に好んで、よく花のことを描寫して、人を花にたとえる。それは、稲作文化によって形成してきた日本人の新植物性という影響が文學に及んで、そういう文學伝統が定まったからである。そして、日本の學者青木登は『源氏物語の花』という作品で述べたように、「季節を彩る花、その移ろいの中に「源氏物語」の世界は展開された。全五十四帖に登場する花を各帖ごとに取り出し、その花を通して「源氏物語」の世界を旅する。」
1.3 研究の目的と意義
上述のように、國內外でも、たくさんの學者や研究者は『源氏物語』と『紅樓夢』二つの作品において、多くの著書や論文を作り上げて、その二つの作品から表現してきた「美人を花に譬え」という描寫についても研究した。しかし、その文學現象を二つの作品において比べて研究することはまだない。そして、大部分の研究者はただその現象の共通點を探し出して、共通點の裏に隠していた相違點が見つからなっかた。私の論文の目的は例の比較をして、共通點と相違點を探し出し、それぞれの原因を見つかり、「美人を花に譬え」という描寫を通して、中日文化と文學のそれぞれの特性を探求したい。それによって、中日の「花を美とする」という共同の審美観があるので、日本と中國の文化や文學の相互理解と交流を深める。
2 二名著から登場する美人を花に譬える例とその原因
2.1 美人を花に譬える例
上述のように、二つの小説も一人の男子をめぐって沢山の女性を描いたとか、共に國內でも世界でも大切な地位がもっているとか、いろいろな共通點をもっている。しかし、その二つの小説をよく読むと、ある共通點を出さなければならないと思われる。それは花のことである。それでは、『源氏物語』と『紅樓夢』の中から出てきた女性を花に喩えた例を挙げてみよう。
まず、『源氏物語』から見てみよう。『日本文學事典』で述べたように、『源氏物語』という作品の中に、自然に関しての描寫であろうと、人物に関しての呼稱げあろうと、喩ときてもきれない関連をもっている。その通りで、『源氏物語』の女性例えば夕顔、常夏、末摘花など直接に植物の名稱によって命名することは明らかである。
具體の例を見てみよう。紫の上は登場する時は三月の三十日だったので、京の桜はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りのに気づいた。そして、後で登場する紫の上を桜に譬えた。[4]
源氏は六條の貴女を名花に、中將を朝顔に譬えた。また、末摘花を紅花に譬えた。「高く長くて、先のほうが下に垂れた形のそこだけが赤かった。」という。それは彼女の鼻の姿である。赤いから、彼女を紅花に譬えた。[6]
夕顔は源氏と出會ってから、夕顔に譬えた。また、「山がつの垣は荒るともをりをりに哀れはかけよ撫子の露」という詩で夕顔は自分の子供即ち玉鬘に可愛がる気持ちを表すために、玉鬘を撫子に譬えた。[7]
確かに日本學者青木登は『源氏物語の花』という作品で述べたように、「季節を彩る花、その移ろいの中に「源氏物語」の世界は展開された。全五十四帖に登場する花を各帖ごとに取り出し、その花を通して「源氏物語」の世界を旅する。」
そして、『紅樓夢』を見てみよう。『紅樓夢』で登場した女性は108余りに達したが、それぞれの性格でも容貌でも違って、よく後世の人々に感心させる。実は、『紅樓夢』で、草花は場面に適応させるためだけではなく、黛玉の瀟湘館であっても、寶釵の蘅蕪苑であっても、その名も主人の気質を引き立てたと言えよう。また、大観園の人々が集まって詩を作る「海棠詩社」も白い海棠によって出た名で、芒種の際、花神を祭るために、黛玉は後世の人々に機を叩いて絶賛させる「葬花詞」を作った。
もっとも例と挙げられるべきなのは寶玉の誕生日に行った「行名花令」、巧みにそれぞれの女性を各自の気立て、風姿、性格、結末と適応する花に譬えた。
黛玉は芙蓉という籤を引いて、籤の上に「風露清愁」を書いて、傍らに「ほかの人よりずっと美しい女性はよくない結末にすむ。黛玉を芙蓉に譬えた。
寶釵は牡丹という籤を引いて、籤の上に「艶冠群芳」を書いて、傍らに「情けない人は彼女を見たら、心が揺れる[10]」という小さい字が書いてある。寶釵を牡丹に譬えた。
探春は杏の花という籤を引いて、籤の上に「謡池仙品」を書いて、傍らに「太陽に近い赤い杏は雲の側[11]」という小さい字をかいてある。探春を杏の花に譬えた。
麝月は頭巾薔薇という籤を引いて、籤の上に「詔華盛極」を書いて、傍らに「頭巾薔薇まだ咲かないとき、ほかの花は全部零れた。[12]」という小さい字を書いてある。彼女を頭巾薔薇に譬えた。
そのほかに、李紈を老梅に、湘雲を海棠にたとえた。襲人を桃の花にたとえた。それは、たしかに『紅樓夢』を研究する専門家の周汝昌は『紅樓夢の蕓術魅力』で述べたように、『紅樓夢』は新しくて獨特な『群花譜』と見なされる。
2.2 その原因
なぜ『源氏物語』も『紅樓夢』も女性を花に譬えて、すなわち女性の美しさを花に託して表すのか?その原因は以下の二點を挙げられる。
第一は、花と二つの作品から登場する女性との繋がりである。どんな繋がりを持っているのか?まずは美しいことである。そして、悲劇になることである。
花というと、人々に美しさと甘い香りを感じさせる。花は植物界の精華で、古代から今まで人々の心の中で美の代名詞とされる。花は美しい。花も女性も美しいからこそ、彼女らを花に譬えて表現する。しかし、どんなに美しい花であっても、いつか萎れる。そして、そのいつかは長年後の將來ではなく、まもなくの將來である。それからみると、二つの名著と花の特性との繋がりはいったいなんでしょう。
紫式部は『源氏物語』で主に源氏と女性との愛情生活を描寫したのに見えるが、それは単純的に愛情生活を描くことではなく、源氏の戀愛、婚姻を通して一夫多妻という制度に支配された女性たちの慘めな運命を明らかに示したためである。日本の歴史から見ると、平安時代の貴族社會では、男女の婚姻はよく政治上の利益に繋がって、政治闘爭の一つの手段にされたことがよくわかる。紫の上は理想の愛情を手に入れないで苦しんで苦しんで死んでしまったこと、空蟬は自分の貞節を守るために、仏門に入って済んだことなど、いろいろある。紫の上など、どれも花でも恥しいほど美しい容貌をしていたが、死ぬまでも不合理の婚姻制度に苦しめて、慘めな結末に陥った。だから、『源氏物語』は女性の悲劇と言えよう。
こういう點では、『紅樓夢』もそういう共通點を持っている。十八世紀の封建社會の末期、偽りの封建禮教と女性に求められた封建的な基準道徳――三従と四徳の圧迫下、純潔な心と愛情、花も恥ずかしいほど美貌をもっている少女たちが慘めな運命から逃されない。花と名著から出た女性たちは、同様に美しくて、最後に悲劇になってしまった。紫式部と曹雪芹はそういう點を見て、女性を花に譬えた。花のように美しい女性たちは花のように萎れて悲劇になってしまった運命から逃されないことを表現したがると思う。
第二、中日文化伝統の共通點はもう一つの原因である。中國では、花文化は古代から今まで続いてくる。花に関しての記載は、中國の商の時代の甲骨文に現れた。戦國時代、孔子は「蘭は花王にあたり」と言った。隋唐宋時代、中國の花文化は非常に盛んになって、花に関する文學作品もいっぱいであった今になって、多くの中國人が花を育てることも、花で部屋を飾ることも、中國の花文化はもっと盛んになって、もう生活の各方面に染み込んだ証拠である。
それでは、日本のほうへ見よう。「日本文化の形態は植物の美學に支えられてきた。日本人にとって言えば、自然は神様である。生活には自然という神様がなくては、生活にならない。さらに言えば、日本の歴史もないという。」ある日本學者はそう述べた。もちろん、木は古代ではもっとも體表的な物象で、古代の日本人の自然観の基礎にされた。しかし、木と花は切ても切れない関係をもっている。相當の植物にとっては、その植物は木だけではなく、花である。そして、花は元來大自然の中で不可欠の部分である。日本人にとって、花書茶は「日本伝統美の三重奏」といわれる。平安時代まで長い間日本人の心に根差した日本人の原始的な自然観そこから生まれた審美観から見れば、花も日本人にとって一つの伝統美であると言えよう。
要するに、花は中國人にとっても、日本人にとっても、ひとつの伝統美である。それは、中日伝統文化が花に対しての共通點である。
3 二名著における美人を花に譬える例の相違點とその原因
3.1 相違點
第二章に述べたように、『源氏物語』と『紅樓夢』を対照して見れば、二つの名著とも花に託して女性形象を描寫した。それは共通點である。しかし、人は共通點を探し出すだけに満足すべきではなく、共通點の裏に隠していた相違點を発現すべきである。なぜかというと、相違點を通してこそ、中日間の文學と文化の違いを発現できる。
その一、『源氏物語』は女性を花に譬えた場合、ある花を見つけて、後で登場する女性をその花に譬えた。あるいは、その女性の姿によってそれと相応する花を選んでその花に譬えて、女性の名も花の名で命名したまでである。すなわち、作者は女性を花に譬えた目標は女性の姿を強調しようである。それにたいして、『紅樓夢』はひとつの女性に対応する花を選択する時、重點は女性の姿に置いたのではなく、女性の性格、気質、運命に置いた。言い換えれば、強調する対象は違っている。
それでは、その現象の例を見てみよう。紫の上は登場する時、源氏は下痢にかかって、北山の某という寺へいこうとして、これは三月の三十日だったので、京の桜はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りのに気づいた。そして、後で登場する紫の上を桜に譬えた。
源氏は「咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎうき今朝の朝顔。どうすればいい」を言った時、六條の貴女を名花に、中將を朝顔に譬えた。
『紅樓夢』で、曹雪芹は黛玉を芙蓉に譬えた。芙蓉は古代から中國の人々にほかの花と比べると比べられない純潔美をもっている。それは視覚上のイメージである。品質上では、身を清く保ち、悪に染まらないということである。また、中國人は美人を形容する時、よく「出水芙蓉」という言葉をよく使う。要するに、芙蓉は中國人の人々の心の中でもっともいい評判のある花だといえよう。黛玉は芙蓉のような身を清く保ち、悪に染まらないという品質を持っている。
そして、黛玉の性格は人に與えた印象も芙蓉とは同じであることといえよう。それに、名利と地位に屈服しない點では、寶玉と黛玉は一致している。彼らはお互いに相手をその世で唯一の知己として大切にしている。だから、寶玉と黛玉の愛情悲劇はさらに読者の同情と殘念の気持ちを博した。
以上の分析によって、『紅樓夢』で比喩の重點は人物の性格と気質に置くのは明らかであろう。
その二、『源氏物語』という名著で一つの女性に対応する花は唯一ではなく、よく登場人物の當時の感情を述べるために、対応する花を変える。それに対して、『紅樓夢』は人物の獨特な気立てを表現し、結末を暗示するために、一つの女性は唯一の花に対応し、自分勝手に対応する花を変えない。例えば、第二回「帚木」で頭中將は自分のせいで夕顔に離れられてから、彼女に対する懐かしい気持を述べるために、夕顔を常夏に譬えた。しかし、夕顔は源氏と出會ってから、夕顔に譬えた。
『源氏物語』に対して、『紅樓夢』の場合はそうではない。『紅樓夢』で寶釵を牡丹に、探春を杏の花に譬えた。李紈を老梅に、湘雲を海棠に譬えた。麝月を頭巾薔薇に、黛玉を芙蓉に譬えた。それは周汝昌は『紅樓夢の蕓術魅力』で述べたように、「『紅樓夢』では、それぞれの女性を各自の気立て、風姿、性格、結末と適応する花に譬えた」。寶釵はだれも比べられない美貌をもって、度胸があり、いつでも道理が通じる。それは牡丹が中國人に與える印象とよくにている。「黛玉は美しくて、とても単純で、素直で、何が言いようならすぐ言う。そして、彼女は寶玉と同じように、権勢に屈服しなくて、権勢も追及しない。それは、彼女のいった社會背景下では、かなり珍しい。これは、周敦頤の芙蓉を讃美する詩句「出淤泥而不染」と同じで、彼女を芙蓉に譬えた。また、『紅樓夢』では、一つの女性は唯一の花に対応し、自分勝手に対応する花を変えない。
3.2 その原因
相違點のある一つの原因は日本の持つ親植物性である。それはなぜ「女性を花に譬え」という現象で『源氏物語』は女性の姿を強調しているという問題を答えられる。稲作の栽培は、また日本人の植物に対する特別な感情を育てた。それは日本人の親植物性である。
日本人は植物に対してほかの國の人より特別な感情を持っている。親植物性があって、どんなに狹い庭であっても菊、桜や松などの植物を栽培し、植物に出會うとかわいいなあ、きれいだなと思い、好きな気持ちは抑えきれないほどである。だから、日本人は文學作品でも、登場人物が自分の好きな女性と出會ったら、「その女性はなんとお美しい、姿も美しくて、なんか花のように美しい」と思う傾向がある。
『源氏物語』で源氏がもっとも好きな女性、紫の上で証明しよう。紫式部は『源氏物語』で紫の上を二回桜に譬えた。まずは、紫の上の出場である。源氏は北山の某という寺へいこうとした。これは三月の三十日だったので、京の桜はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りのに気づいた。そして、間もなく彼はまだ若い紫の上を見て、自分の女にしようと思った。ここで、彼は紫の上を山桜に譬えて、彼女に対しての好きになった気持ちを表した。
もう一つの原因は日本文學の主情性である。主情性はなぜ『源氏物語』という名著で一つの女性に対応する花は唯一ではなく、対応する花を変えるという問題を答えられる。日本人は自分の感情を第一にしているので、どんな場合でも自分の気持ちを述べるために、物體に託して具體的に表現する。
すなわち、日本人は志より、自分の感情あるいは気持をもっと大切にしている。だから、『源氏物語』で源氏であっても、夕霧であっても、よく自分の目の前の花を折って、手紙と伴って女性の方へ送り、よく後で出會う女性を當時自分が見た花に譬えてその女性の美しさを感心する。
日本文學の親植物性と主情性によって、比喩の重點を女性の姿に置いて、譬とする対象もよく変える。しかし、『紅樓夢』の場合で比喩の重點を外観上に置くではなく、品質上に置いたと思う。それは中國と日本が花文化に対しての違いによって、その結果がある。我が國の花文化の精粋は中國語で言えば「花韻」である。花韻というのは、ある花の風采、品格と特性である。それは外観のものではなく、內在のものである。
中國人は花の姿より、花の「花韻」をもっと大切にしていることが明らかである。ですから、女性を花に譬える場合、重點を女性の姿に置くではなく、彼女らの風采、品格と気質に置いた。したがって、『紅樓夢』で、ひとつの女性に対応する花は唯一で、そして、花と女性との性格や気質上の共通點を通して、比喩を象徴に昇華された。
要するに、その違いのある原因は日本人の親植物と文學上の主情性と中日花文化の違いである。
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